こんにちは!
ところでみなさんには、子どもの頃や、学生だったころを思い出しての「後悔」ってありますか?
僕の場合、
「もっと真面目に勉強すりゃよかったな」以外は、あまりありません。
ほぼ幸せで、とても楽しい時間を過ごしたのち、社会に巣立っています。
ただ、ひとつ、心にひっかかっていることがあります。
それは、分けるとこの3つです。
・小学校のとき、クラスで当たり前のようにいつも仲間はずれにされている子がいた。
僕は、その子を仲間はずれにしている「みんな」の側の一人だった
・中学では、クラスによくいじめられている子がいた。
僕は、いじめたわけではなかったけれど、その子を蔑む傍観者の一人だった
・高校でも、仲の良いグループから急に追い出され、孤立したクラスメイトがいた。
僕は、別のグループの一員として、やはり傍観する立場を決め込んでいた
いずれについても、思い出すと、胸がキリキリと痛みます。
うっかり朝寝した日の夜など、
仲間はずれにされたり、いじめられたりしていた彼ら、彼女らの顔を思い出し、しばらく眠れないようなこともたまにあります。
「ああ、情けないことをしてしまったな」と、いつもひどく反省させられています。
彼ら、彼女らが、いまは幸せな人生の半ばを歩んでいることを
切に願ったりもしています。
大人になって、長く社会で過ごしてきた僕には、ひとつの答えが見えています。
遠い過去の僕は、いまも日本中の津々浦々で、たくさんの子どもたちが心に抱いているであろう、
「いじめられたり、仲間はずれにされている子に優しくすると、次は自分がまずい立場に立つことになるぞ」
と、いう想いにつねに恐怖していました。
ところが、本当は、そうではないんです。
いじめられっ子や、仲間はずれの子に、勇気をもって優しい声をかける存在が現れたとき、実は恐怖するのは、いじめたり、仲間はずれを主導していたりする方なんです。(大人の社会でもそうですね)
「おれはもういじめるのやめるよ」
「あいつを無視するのやめるよ」
一人がそれを言えば、やがて空気は劇的に変わるんです。
もろい石垣が崩れるように。
始めはポロポロと、やがて一気に。
なので、簡単なこと。
それをすればよかった・・・!
いまは猛烈に、そう感じています。
毎日辛い目に遭っている仲間を横目で見ながら、
「かわいそうに。あいつには友達がいない。でも自分にはいる。ああ、僕はあいつのようにならなくてよかった」
そんな安堵は、あとから思えば、まるでクソ溜めの中に浸かって安心しているクソそのもののような、愚劣きわまりない安堵に過ぎませんでした。
いじめられている子や無視されている子に対して、大人はつい、こんな声をかけたくなってしまいます。
「一生は長いよ」
「いまの辛い1、2年間なんて、あとから思い出せば一瞬のこと。気に病むな」
それは、たしかに振り返ればかなりの程度事実なんですが、
僕は、「一生は長く、いま現在は一瞬」というこの言葉は、むしろ警告として、友達をいじめたり、仲間はずれにしている側のために、突きつけてあげなければいけないものだといまは思っています。
「おい、仲間をいじめて楽しんで、酔い痴れていられる時間は一瞬で終わるぞ。その後は一生後悔の時間が続くぞ。死ぬ瞬間まで続くぞ。長く、長く、長く、続くぞ」
おそろしいことですね。
人間は、後悔という、自分が自分に課す刑罰からだけは、決して逃れられないのです。
死の瞬間にまで自分に覆いかぶさってくる深い後悔を抱えてしまうとしたら、それこそが、人間がはるかな過去から恐れ続ける、「地獄」ということになるのではないかと思います。
おそまつ。
▼こちらもどうぞ!
(イラストは「かわいいイラストが無料のイラストレイン」さんより)