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生きることは知ることにゃのだ

 

先日、ひさしぶりに漫画の「ジパング」を読み返したにゃ。

 

これ、かわぐちかいじ先生の作品の中ではトラキチは一番好きなんよ。ホントにスケールのデカい、すごい作品にゃ。

 

この漫画に出てくるたくさんの名ゼリフの中で、トラキチが一番好きなのが上のコマのセリフにゃ。

 

「生きているということは、知ることなのだ」

 

これ、作中でこの物語の第二の主人公、草加拓海が発する言葉なんにゃけど、トラキチもまさに「生きることは知ること」なのだと思ってるにゃ。

 

なんなら、われわれ、たとえば明日起こることは誰も知らないにゃ。

 

明日どころか、1時間後のことだって、誰にも判らにゃい。

 

ましてや、1年後のことや、10年後のことなんて、まったく知る由もにゃい。

 

にゃけど、生きていればやがてはそれを知ることができる。

 

すると、まさに知ることって生きることだし、生きているということは、知ることになるよにゃ。

 

にゃから、トラキチは思うんよ。

 

知ることが好きな人は、それだけで人生幸せな人だにゃって。

 

つまり、知ること、すなわち人生なんにゃから、知ることが好きな人は人生そのものが好きということになる。

 

いつか訪れる自分の死さえも、「死」という体験を知ることができる貴重な機会なわけにゃから、知ることが好きな人の場合、死ぬのはたしかに怖いけど、反面、多少の楽しみも湧いてくるというものだよにゃ。

 

(もっとも、死の中には、本人が死を認識できない瞬間的な死というのもあるんにゃろうけどにゃ。たとえば核爆発で一瞬のうちに肉体も脳も蒸発するような……)

 

逆に、知ることが嫌いな人は気の毒にゃ。

 

なぜって、その人は、そのことで人生も嫌いにならざるをえないし、未来も嫌わざるをえない。

 

そんな人いるのか? って感じにゃけど、いやいや、本質的にはそういう人ってたくさんいるぞ。

 

たとえば、過去ばかりを愛して未来を愛せない人。要は、年齢問わず精神が老人の人。

 

なにせ、未来とは、知ることの連続を意味するものにゃからな。

 

知ることが嫌いな人は、すなわち未来の訪れを愛せない。未来に向かって進むことを愛せない。

 

そんな人は、きっと、毎日生きているのがつまらないにゃろな。

 

(上段のコマは、マンガファンの愛で作るマンガサイト「アル」さんからコマ投稿可のコンテンツをお借りしているものにゃ)

 

(amazon「ジパング~かわぐちかいじ」のページ)