川越で、昔大きな火事があったときの話にゃ。
炎が町をどんどん舐め尽くしていく中、蓮馨寺(れんけいじ)の鐘が突然鳴り出したんだそうにゃ。
見ると、ひとりのお坊さんが鐘楼にいて、しきりと鐘を撞いてるんよ。片肌を脱ぎ、衣の裾もはだけ、それはすごい勢いにゃ。
逃げようとしていた近所のみんなは、これを見てびっくり。
「誰だろう。住職でもない。見かける顔でもない。遠くの人にも火事を知らせようと、鐘を打ち鳴らしているにちがいないが、ここにももう火の手が迫っている。お坊さん、あなたも早く逃げなさい!」
遠くから叫んだそうにゃ。
ところが、お坊さんは鐘を撞くのを一向にやめようとしないんよ。ゴーン、ゴーン、と、いつまでも鳴らし続けている。
すると、いよいよ炎が寺の境内にも迫って来て、門を焼き、本堂やら庫裏やらの建物にも火の粉がかかり始めたにゃ。
「大変だ。われわれも逃げないと。お坊さん、あんたも早く逃げて!」
駆けていく人々の背後で、お寺はやがて火に包まれ、大きな炎が赤々と天に立ちのぼったにゃ。
それでも、お坊さんはまだそこにいるのか、鐘はさらに鳴り続け、ゴーン、ゴーンと、遠くにまで音を響かせていたにゃ。
やがて火事はおさまり、一面焼け野原になった町にみんなが戻って来たにゃ。
すると、不思議なことに、どの建物もすっかり焼け落ちてしまった蓮馨寺の境内に、なぜか鐘楼だけが残っているんよ。鐘もしっかりと吊り下げて。
しかも、焦げ跡ひとつ付いてない。
「なんと。これは奇妙だ。しかも、あのお坊さんが誰だったのかをお寺の人も皆知らないと言う。さては……」
あのお坊さんは、きっと、この蓮馨寺で手厚く祀られている呑龍上人だったのだろう。あんな炎の中で鐘を鳴らし続けるなんて、生身の人間に出来ることではない。
「まさにそのとおりだ」と、みんな納得したそうにゃ。
ちなみに、呑龍さんというのは、戦国から江戸時代にかけて活躍した浄土宗のお坊さんにゃ。蓮馨寺では、いまもこの人を第二のご本尊のように扱って大切にしている。
貧乏な家の子を預かったり、捨て子をひろって育てたり、児童福祉に尽力した人にゃ。なので、「子育て呑龍」なんて呼ばれてたらしいよにゃ。
ところで、以上のお話なんにゃけど、実は面白い続き(?)があるんよ。
こっちは実話にゃ。さっきの昔ばなしの時代からは、多分かなりあとのこと。
明治26年(1893)の川越大火で、蓮馨寺は「本当に」焼けてしまうんよ。
丸焼けにゃ。
ところが、その時生き残ったのが、手水舎と、なんと鐘楼にゃ。
面白いにゃろ?
伝説がほぼほぼ、そのとおりになったんよ。元禄8年(1695)製作の大事な鐘ももちろん生き残って、いまは市の有形文化財になってるにゃ。
でもって、もうひとつ付け加えるぞ。
いまの話をひっくり返すみたいになるけど、この呑龍さんの昔ばなしって、案外最近の創作である可能性もあるんよにゃ。
なんでか?
蓮馨寺が呑龍さんを本格的にお祀りするようになったのって、実は明治に入ってからのことなんよ。それ以前はどのくらいの雰囲気だったんにゃろ……?
なので、この伝説は、むかしむかしの話じゃなく、実は明治の大火後に生まれたものなのかも……と、そんな考察も出来るということにゃ。
毎月8日は呑龍さんのご縁日「呑龍デー」。出店が境内に集まったり、芸人さんがやって来たりで、蓮馨寺は大いに賑わうにゃ。
川越の街の真ん中にあるこのお寺の境内は、観光の人も地元市民もたくさん集まる憩いの場にゃ。