阿波池田。夏。
揺れる陽炎の底に沈み込んだような静かな町を歩いた。
古い家並みの中、ふと1枚の表札が目に留まった。
「蔦 文也」とそこにあった。蔦監督である。
「山あいの町の子どもたちに海を見せてやりたい」
そう言って、県立池田高校野球部を甲子園へ14度導いた名監督の自宅が、そこに佇んでいた。
優勝3回、準優勝2回。
そうした成績よりも、甲子園球場を明るく沸かせたそのキャラクターがより印象深い人だった。
蔦監督は、すでに2001年に亡くなっている。
ご近所の人がたまたま植木いじりのため家から外に現れたのを呼び止め、「この家は蔦監督のお宅で間違いありませんか」と、尋ねると、
「そうです。蔦先生のご自宅です」
「監督」ではなく「先生」と、訂正を加えた答えが返ってきた。
蔦さんは、池田高校では、野球部を指導するほか社会科の教鞭も執られていた。
ずいぶんな酒飲みでもあったという。豪快に酔ったその姿が、この界隈でも時折見られたらしい。
部の早朝練習に際しては、体に残った昨夜の酒を薄めるべく、まず大量の水をガブ飲みした。昭和の景色であるといえば、昭和の景色といっていい。
さて、阿波池田だ。
この町は、かつてたばこの生産で名をはせた。江戸期、その商圏ははるか蝦夷地(北海道)にまで及んだ。
繁栄は幕末・維新を経てもなお続き、明治末期、たばこが専売制のもとにおかれるまで、この狭い山あいの中、60を超えるたばこ工場がひしめいていたという。
その後、池田のたばこ産業は、専売公社時代を経たのち、葉たばこ生産農家も含めてほとんどが消滅した。だが、池田のたばこが殷賑を極めた頃の重厚な建物が、いまもいくつか町には残っている。
そうした建物の多くには、立派な袖壁=うだつが高々と立ち上がっている。この町の古い栄光をいまに伝えてくれている。
池田は、四国の重要な鉄道幹線が交じわる場所にある。山中の小さな都会といっていい。駅前からはそれなりの規模の商店街が伸びていて、アーケード屋根もかかっている。
しかし、見上げてみるとところどころそれが破れ、穴が開いていた。
いまは市町村合併によって(2006年のこと)、この町は三好市とよばれる広い区域の一部になっている。
(上記は初出2009年。内容はそれ以前の訪問に基づくものにゃ。トラキチ旅のエッセイは、過去に別の個人サイトで別名で公開していたコンテンツにゃ)
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