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祇園とはなにか。答えはインドにあった <トラキチ旅のエッセイ>第1話

 

「祇園の街で認められる」

 

それは昔も今も、成功を表す尺度のひとつである。

 

祇園で「旦那」と認められ、舞妓、芸妓という生きた芸術作品のパトロンとなる。そのためには、経済力だけではない、人間に品が要る。

 

知性も欠かせない。

 

さらには、品や知性だけではなく、

 

「堅物ではあきまへん。遊びはるときは芯から阿呆になれる人でないと」―――祇園はまだ無理を言う。

 

これでは英国で英国紳士たるよりも難しそうだが、しかしそれでも、ひそかにこうした祇園の旦那になることを夢見ている男たちはこんにちでも数多い。

 

パトロンといえば、仏教を始めた釈迦もパトロンに恵まれた人だった。

 

釈迦はもとは立派な王子様だったが、出家してからは一生物乞いをして暮らした。弟子たちもまた師に倣って、物乞い生活をした。

 

そうした彼らが仲間を大勢増やしながらも満足に食べていけたのは、彼らをせっせと援助した裕福なパトロンが、実は周りにたくさんいたからであるにほかならない。

 

釈迦は優しい人だった。弟子が苦行に挑もうとすると、

 

「痛かったり、辛かったり、というのは、私はあまりすすめないよ」

 

と、首を横に振るような人物だったから、最初、釈迦の教団は、灼熱のインドの大地の上、

 

「涼しい場所はないか」

 

「雨露をしのげるところはないか」

 

より快適な瞑想、修行の場を求め、あちらこちらをさまよった。

 

ところが、そのうち自然保護派の宗教の人達から、

 

「お前たち、雨季になってもうろうろと外を歩き回っているようだが、雨を吸ってせっかく土から顔を出した草花の新芽を踏みつけているじゃないか」

 

と、文句が出てしまった。

 

釈迦は、「なるほどそのとおりだ」と素直に納得し、

 

「ではみんな、我々は今後、雨の季節にかぎっては、どこか一箇所に定住することにしよう」

 

と、弟子たちによびかけた。

 

そこで、早速土地を探していたところ、日頃釈迦を応援していたスダッタという名の金持ちが、

 

「先生、いい物件がありましたよ」

 

と、見つけてくれたのが、ジェータという王族が持っていた涼しい林園だった。

 

釈迦教団は、そのころはまだ放浪・新興のやや怪しい集団だったにちがいない。

 

が、ジェータは貴顕の身分ながら理解を示し、スダッタがその懐をはたこうとするところ、

 

「なんならこの土地、皆さんに差し上げましょうか」

 

と、気前のよいところを見せたようである。

 

スダッタは、漢訳経典において、「給孤独長者」(孤独の者に給する長者)。

 

ジェータは、音訳されて、「祇陀太子」。

 

これらを合わせて、林園の名を「祇樹給孤独園」。略して「祇園」―――。

 

これが、祇園の名のおこりである。

 

祇園精舎の鐘の音―――と、平価物語の冒頭にいう「祇園精舎」というのは、土地がめでたく釈迦教団の手に渡ったのち、そこにパトロンたちが建ててやった宿舎のことである。

 

すなわち、京都の祇園という街、そもそもその呼び名自体に粋なパトロン=旦那たちの名前がひそかに隠れているということになる。

 

(上記は初出2009年。トラキチ旅のエッセイは、過去に別の個人サイトで、別名で公開していたコンテンツにゃ)