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アユタヤ 輝きの大航海時代 <トラキチ旅のエッセイ>第29話

 

東アジアをゆるがした豊臣秀吉の朝鮮侵攻―――文禄・慶長の役(1592~1598)。

 

このとき、応戦に忙しい中国・明に対し、遠いインドシナの地から、

 

「われらに賊どもを迎え撃つ用意あり―――」

 

名乗り出た国があることをご存知だろうか。

 

その名を「アユタヤ」という。多くの諸外国はシャムと呼んだ。今のタイ王国につながる国である。

 

世界が海のみちでひとつに結ばれた大航海時代。

 

日本、中国、琉球、ベトナム―――アジアからも、さまざまな国や地域がこの巨大なうねりに身を投じ、歴史に参加した。

 

なかでも、その主役の一人としてひときわ輝きを放ったのが、アユタヤだった。

 

16世紀を迎える頃、アユタヤは、まるで中国の巨大王朝のように、周辺20にもおよぶ国々を朝貢国として従える東南アジアの大国となっていた。

 

そのアユタヤが、1511年、はじめてヨーロッパと接触する。相手はポルトガルだった。

 

様子が日本と似ている。アユタヤは、ポルトガルの持つ鉄砲に驚いた。次いで、これを激しく欲した。そのため、世界貿易の舞台に乗り出すのである。

 

間もなく、アユタヤには、東アジアと西アジア・ヨーロッパを結ぶ結節点として、世界中から人びとが集まり出す。

 

最盛期にあっては、40ヶ国を超える国々から、人びとがやってきていたという。

 

ポルトガル人、オランダ人、フランス人、イギリス人、デンマーク人、中国人、ベトナム人、琉球人、日本人、ペルシャ人―――

 

その目的は、主に貿易。それにともなう海上運送業務。

 

有能な人材は、政府にも重用された。軍の部隊を指揮したり、高級官僚にのぼりつめたりする者もいた。

 

アユタヤの大地は赤い。熱帯の紅土が、照りつける太陽に焼かれながらスコールを待ちわびる。

 

この赤い大地を肌の色も言葉もちがう無数の人びとが幾万と踏みしめた。

 

そして、その幾ばくかは、故国へ戻ることもなくこの地に一生を終え、土に還った。

 

「われらが日本の秀吉とやらを討ちましょう」

 

明は、それでは自らの面子が立たないと感じたか、豊かなアユタヤからの申し出を断った。

 

やがて、そんな時代が終わると、日本は江戸の世となり、いわゆる「鎖国」がはじまった。

 

日本は、海外貿易の相手をオランダと「唐船」にしぼった。

 

唐船=中国船のことである。

 

しかし、実は、ちょっとちがうのだ。

 

その船上、日焼けした顔で船を操っている人びとを見れば、確かに中国人にちがいないが、これらのうち、実は何割かはアユタヤの船なのである。

 

日本側もこれをちゃんと心得ていた。これらを他の唐船と別け、

 

「暹羅(せんら=シャム=アユタヤ)屋形、仕出しの船」

 

として記録した。

 

アユタヤ船はいろいろなものを日本に運んだが、当時、日本人は、シャムの地から運ばれる鹿皮を特に好んだ。

 

日本では、木綿の栽培が広がってまだ日も浅かった。

 

そのため、木綿製だと値が張るとして、江戸初期においては、羽織、袴、足袋―――と、さまざまなものが鹿の皮でつくられていたのである。

 

一説には、この頃、年間三十万枚におよぶ鹿皮が、海を越えて日本に渡ったとされている。

 

シャムの鹿たちは絶滅を覚悟しただろう。


(上の写真は、アユタヤ歴史公園内にあるワット・プラ・ラーム=プラ・ラーム寺の仏塔。この寺は、1369年に死んだアユタヤ朝の初代・ウートン王の遺骨を納めた場所に建てられたものとされている。下の写真も同寺のもの)

 

 

(上記は初出2009年。情報は当時のものにゃ! トラキチ旅のエッセイは、過去に別の個人サイトで別名で公開していたコンテンツにゃ)