有名な草津温泉の「湯もみ唄」の一節である。
「お医者様でも草津の湯でも惚れた病はなおりゃせぬ」
草津の湯はまことに効能芳しく、万病に効き、恋の病でもない限りはいずれも治癒、快癒させるほどの力がそなわっている旨を唄っている。
江戸時代、物見遊山の旅が庶民の娯楽にまでひろがると、「温泉番付」なるものが市中に現れはじめた。
相撲の番付にならい、各地の温泉の「効き目」をランク付けする。
大関を最上位として(当時、元となる相撲番付に横綱は無かった)、順位を定め、木版刷りしてこれを発表した。
番付は、相撲のものとは違い、小さな例外はあるものの、実際に東日本にある温泉を「東」、西日本に湧く温泉を「西」と別けてあった。
そうした温泉番付で、いつも西の大関を張っていたのは有馬温泉である。いまは神戸市内にある。
湯の効能はともかく、その歴史は日本書紀の記述にまでさかのぼり、京の都も近いことから貴顕の訪問が多かった。有馬はとにかく格が高かった。
加えて、西では但州城崎(現・兵庫県城崎温泉)も評判がよかった。おおむね有馬に次ぐ評価を受けていた。なお、ここもやはり京都からの客が多かった。
対して、東は草津温泉が圧倒的だった。つねに不動の大関を張っている。(繰り返すが、横綱ではなく大関が番付のトップ)
とはいえ、草津には若干のハンディが存在した。西の有馬、城崎、さらには道後、別府といった名だたる湯に比べると、歴史がきらびやかではない。
都・畿内からははるかに遠く、そこに到る道は峻険で、さかのぼっても戦国時代――おそらくは江戸の世が開ける頃までは、ほぼ地下(じげ)の人々には知られていなかった。
よって、草津の場合「格」にとぼしい。
ゆえに、草津の番付は、ひとえに「ここの湯に浸かって、健康を取り戻した」という人びとの実証と結果のみを武器に、勝ち取った様子がある。
ところで、温泉はそもそも本当に病気を治し、健康を促すのか?
温泉のいわゆる効能については(特に温泉成分による効能については)、確定した医学的論理が、実のところほぼ無いといっていい。
その真偽と解釈には現在も諸説あるが、それでも草津温泉にかぎっては、おそらく実際によく「効いた」のだろう。
なぜか? 筆者はそのわけを考えてみた。聞いてほしい。
「草津温泉は確かに効いた」——その理由のうち、決定的な要素として、筆者は草津の地が当時の有名温泉地としてはやや異例の高所にあったことを挙げたいのである。
草津温泉、標高約1,200メートルに位置している。
ちなみに、江戸期、温泉を訪れる湯治客は現在のように一泊や二泊では家に帰らない。数週間、あるいは数十日、長い者は数ヶ月にわたってその地に逗留し、遊山したり、付近の社寺を参拝したりしながら湯に浸かった。
つまり、草津にあっては、これがもっとも体によいかたちの、急な負担のない、理想的な高地トレーニングになっていたのではないか。
草津温泉という高地における低酸素の環境が、人体の循環機能をゆるやかに促進し、心肺を鍛える。
血液もその機能を増しただろう。赤血球およびその内部の赤色素たんぱく質=ヘモグロビンが、より多くの酸素を運ぼうと、数を増やすのである。
加えて、湯治客はおおむね定時をもって湯に浸かる。
湯温と水圧による刺激が、入浴のたび身体に加わり、このことが適度な運動を毎日行なうにひとしい効果を生み出したにちがいない。
よって、このような環境にひと月も滞在したあかつきには――
「すっかり身が軽くなった」
そう実感出来ない方が、よほどどうかしていたのに相違ない。
「草津帰りのうちの旦那、駆けても息が切れぬようになった」
などと、家人が目を見張ったようなことも、江戸ではたびたびあったことだろう。
ほかにも、たとえば九州の雲仙など、高地の利と温泉の組合せが生む冥利に、大勢の庶民が気付き、その価値を見出したのがおそらく江戸という時代だった。
(上記は初出2009年。情報は当時のものにゃ! トラキチ旅のエッセイは、過去に別の個人サイトで別名で公開していたコンテンツにゃ)