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アユタヤ 美しき廃墟を彷徨う <トラキチ旅のエッセイ>第30話

 

アユタヤの歴史遺産は、そのほぼすべてが廃墟といっていい。

 

おびただしい数にのぼる寺院跡は、どれもがすさまじい破壊のあとであり、収奪の終わったのちに残された荒々しい残骸となる。

 

アユタヤを破壊したのは、ビルマだった(現ミャンマー)。

 

1752年のこと。ビルマの地に新たな王朝が生まれた。コンバウン朝という。翌19世紀末まで続き、ビルマに巨大な版図をもたらしつつも、最後はイギリスに降ることとなる王朝である。

 

コンバウン朝は、誕生後またたく間に国内の諸民族を切り従え、平定を終えたが、次に牙をむいた先が、豊かな隣国アユタヤだった。

 

アユタヤは、まことに豊かだった。

 

際限なく収穫される米。無尽蔵に湧く林産物。海を渡って次々ともたらされる海外の品々と文化―――。

 

寺々は競って華麗な塔を林立させ、運河では各国の船がところせましと船端を接し合っていた。

 

人々は貿易に潤い、積み上がった財物を寺へ寄進して来世を願い、仏僧が唱和する経文に朝夕惑溺していた。


そこに、野望に満ちた若々しいコンバウン朝ビルマが、進軍の轟きとともに攻め入ると、アユタヤは守りを徐々に崩され、ついには都(アユタヤ)を囲まれた。

 

1年2カ月にわたる過酷な包囲戦の末、1767年、アユタヤは力尽きた。街の徹底的な破壊とともに、逃げ遅れた3万の人々がビルマへ連行されたという。

 

一方、アユタヤを滅ぼしたビルマは、そのまま当地に留まらず、少ない進駐兵を残し、間もなく突風のように北へ去った。

 

なぜなら、ビルマは、アユタヤ侵攻の行きがけに、経路周辺の諸民族を脅し上げ、補給を急くなどしていたのである。

 

こうしたビルマの暴れっぷりを見かねた北の大国・清(中国)が、

 

「わが南辺を荒らす者―――」


として、にわかに兵を差し向けたため、ビルマは、占領したアユタヤの地に大軍を落ち着かせることが出来なかった。(ただし、このあと清はビルマに手痛く反撃され、撤退させられる)

 

そののち、タイのいわゆる救国の英雄、タークシンの活躍によって、アユタヤはタイ=シャム人のもとへ奪還されるが、新たに王となったタークシンは、

 

「アユタヤの街は壊されすぎた。再建せず」

 

として、都を南のトンブリーに移した。アユタヤ朝400年の栄光の歴史は、ここでついに閉じられている。

 

アユタヤの歴史遺産は、そのために、いずれもが廃墟なのである。

 

王宮寺院、ワット・プラ・シー・サンペット

有名な「木の根仏頭」のあるワット・プラ・マハタート

 

さらには、ワット・ラーチャブラナ、ワット・プラ・ラーム、ワット・チャイワッタナラーム―――。

 

多くの観光客でにぎわうどの有名寺院跡も、赤煉瓦の骨格もあらわな建造物が累々と立ち並ぶ風景を見せているが、本来、これらには、白亜の漆喰がその表面に厚く盛られていた。

 

また、要所々々にあっては、眩しい黄金の装飾がふんだんにほどこされていたはずである。

 

そうしたきらびやかな景色といま見る廃墟の風景、どちらが美しいかは決められるものではないが。

 

(上の写真はワット・プラ・マハタートの境内。以下はキャプションのとおり)

 

ワット・プラ・マハタート仏塔

 

ワット・プラ・マハタート境内

 

ワット・プラ・シー・サンペット仏塔

 

(上記は初出2009年。情報は当時のものにゃ! トラキチ旅のエッセイは、過去に別の個人サイトで別名で公開していたコンテンツにゃ)