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旧水海道小学校 教育の時代の残像 <トラキチ旅のエッセイ>第28話

 

しばらく以前、政治家の発言により、にわかに有名になった言葉がある。

 

「米百俵」

 

出どころは、越後長岡藩士小林虎三郎の逸話となる。

 

戊辰戦争における敗戦と、その被害による長岡藩の窮状を見かね、支藩である三根山藩が贈った百俵の米。

 

「助かった。これで糊口をしのげる」

 

と、喜んだ藩士らを前に、藩の大参事虎三郎は、

 

「これは食べない」

 

食ってしまってはそれで終わり。ろくに食べられないわれわれだからこそ、人を育てることにこれをつかうのだ―――。

 

空きっ腹をものともせず売ってしまい、学校建設の資金をこしらえたという。

 

以上は、明治という時代を象徴する話として知られているが、これだけではない。明治の人びとは、官も民も、多くが虎三郎同様に教育熱心だった。

 

たとえば、多くの立派な小学校が、明治の初め、住人の寄付を募って建てられている。東京の周りをくるりと見渡してみたい。

 

まず、信州松本市「開智学校」。

 

松本城とならぶこの町の象徴といっていい。明治9年に完成した新校舎は、いまは博物館となっている。この華麗で堅固な木造校舎は、昭和38年まで、現役の小学校として使われていた。建設費の約7割を地元の人々が負担。

 

次に、同じく信州「中込学校」。

 

現・佐久市内に建つ。明治8年、千曲川沿いの静かな山の村に突然出現した白亜の校舎は、深い影をつくるバルコニーが美しい。建設費のほとんどを地元の浄財に頼っている。開校当時は、ガラス窓を珍しがる見学者が絶えなかったという。

 

伊豆に南下する。西伊豆・松崎の山あいに佇む「岩科学校」。

 

明治13年の完成。費用の4割以上を村の人々が出した。江戸期以来、左官技術が集積している当地ということで、見事ななまこ壁が校舎を飾っている。

 

そして、上の写真に紹介する「水海道小学校」(旧水海道小学校本館)。

 

現在、茨城県立歴史館の敷地内に置かれている校舎は、旧水海道市より寄贈されたもの。教育資料の展示室として、その内部も公開されている。明治14年の建築。住民からの寄付金5千円を基金とした。換算のしかたは色々あるが、こんにちに置き換えれば「億」前後をイメージしてもいい金額となる。

 

さらには、「新しい教育は新しい器のもとで」――そんな意気込みのもと、開智、中込、岩科の各学校と同様、この水海道小学校の校舎も、洋風を加味した斬新な建物として建てられることを人びとは望んだ。(これらはいずれも「擬洋風建築」と分類される)

 

そうした期待を一身に担い、現場を指揮した棟梁は羽田甚蔵という人。地元の宮大工だったという。常総の有名古社、一言主神社の現拝殿も手掛けた人物とされる。

 

 

(上記は初出2009年。情報は当時のものにゃ! トラキチ旅のエッセイは、過去に別の個人サイトで別名で公開していたコンテンツにゃ)

 

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