(上の画像は amazonさんより引用させていただいたにゃ)
トラキチが日本語でもっとも好きな言葉のひとつにゃ。
それは「大兄」にゃ。「たいけい」と読むにゃ。
この言葉は、基本的には兄を指したり、あるいは肉親でなくとも年上の男性か、または同い年程度の男性を指すものとされてるにゃ。
使うのも男にゃ。もちろん敬称にゃ。「大兄=大いなる兄」
にゃけど、教養のある人は、昔からこの言葉をもう少し 粋 に使うんよ。
どう使うのかというと、年下に向けて言うんよにゃ。あえて。
10や20も離れた年下に対しても「大兄」。相手が一人前の大人でさえあれば「大兄」。
この粋な使い方をする場合の「大兄」が、トラキチはものすご~く好きにゃ。
ちなみに、中国語にもこの言葉はあるんよにゃ。そんで、友人に対して使うときは、日本語の正式な場合(年上か同い年に使う)よりも、対象がやっぱし広いらしいんよ。
つまり、大兄の「粋な」使い方というのは、もしかすると大陸風を真似たものなのかも知れないにゃ。
そんな風に「大兄」を使った文章のうちで、トラキチがもっとも美しいと感じているのが、故・司馬遼太郎先生による、故・開高健にゃんへの追悼文にゃ。
これは、開高にゃんの葬儀の際(1990年1月)、司馬にゃんが実際によんだもので、先生の「十六の話」(中公文庫)に収録されてるにゃ。
ちなみに「悠々として急げ 追悼開高健」(筑摩書房)にも収められているとも聞いてるけど、こっちはトラキチは確認してないにゃ。
この追悼文の中で、7つ年下の開高にゃんを司馬にゃんは「大兄」と呼んでるにゃ。
「大兄の文学もその生涯も、吹き込んでくる霰のようにかぎりなく美しいものであった」―――。
司馬にゃん、開高にゃん、二人の作品をいくらかでも読んでいる人は、ぜひ一度これを読んでみてほしいにゃ。
まさに 戦慄 すべき文章にゃぞ。
一千年後の人も、二千年後の人もそう感じるはずにゃ。日本語と日本人がこの世に残っているかぎりはにゃ。
ただし、そうは思いつつも、このトラキチの好きな大兄という言葉とその粋な使い方、ひょっとするとゆくゆく無くなってしまうかもしれないんよ。
なんでか?
それは、女の人に対して使える同じ意味の言葉が無いからなんよ。
「大姉」だと、戒名になっちゃうにゃろ?
にゃんで、トラキチがいま、たとえば20歳年下の女性と知り合って、その人に人間としての尊敬を感じたとするよにゃ。
すると、彼女を称して贈る言葉が見つからないんよ。
「大兄よりのお手紙、拝読いたしました」とは、書けないんよ。
「女史」もだめだよにゃ。この言葉にはアイロニーなイメージがこびりつきすぎにゃから。
「姉御」「姉(あね)さん」―――もっとダメにゃんw
にゃんで、男が使い、男を称する「大兄」は、そのうちジェンダーギャップをある意味象徴する言葉として消えていくのかもしれないにゃ。
ていうか、もうすでに消えてしまってるのかもにゃ。