道草反省日記

誰かの反省、それはみんなのお役立ち

死刑は寛大な刑罰だという自説を聞いてほしい

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ちょっと前に、オウムの麻原彰晃ら7人の死刑が執行されました。

 

そのとき僕はあらためて思ったんですが、

これ、持論です。

「死刑って、ゆるい刑罰だ」。

 

もちろん、僕だって死刑はいやですよ。最後まで、刑務所の中であっても、なんとか寿命を全うしたいです。

 

ただ、ここで引っ張り出したいのは、感情ではなく論理です。

 

死刑って、随分と甘くて不公平な刑罰です。論理の上では。

 

なぜって、僕ら、生まれてきた以上、みんな死刑宣告されているではないですか。

誰もがいつかは死ぬんです。

 

そして、その死に方によっては、刑場での首吊りどころではない、死に至るまでの間、およそ耐え難い恐怖を味わわされるのかもしれない。

すさまじい苦痛にさいなまれるかもしれない。

 

つまり僕ら、みんな生まれた以上は、どんな方法で殺されるのかもわからない、おそるべき死刑宣告を受けているんです。

そしてそれは、いつかかならず執行されてしまう。

 

たとえば、僕の死刑執行は、次の台風が来た朝に予定されているのかもしれない。

水中に引きずり込まれた車の中で、僕はもがき苦しみながら窒息死させられるのかもしれない。(僕は車は持っていませんが、仮に)

 

そう思えば、死刑って、「刑」の意味さえなしていないことになっちゃいませんか?

 

以上は、繰り返しますが、感情ではなく論理の上でのことです。

 

ただ、この論理が実際に成立してしまうこともありますよね?

 

そもそもの自殺志願者が、人殺しをして、死刑判決を受けるような場合です。

 

「死刑になりたくて罪を犯した」と、言い放つ犯罪者が時折いますが、それがまちがいなく本心から出たものであった場合は、死刑が刑の意味をなさないという上記の論理が、見事に成立することになってしまいます。

 

そこで思うんですが、僕は、そもそも「刑罰」を「罪」とは別けるべきだと思っています。

 

そう書くとよくわからないし、大いに誤解も生んじゃいますね。

 

つまりこういうことです。

 

罪が重い・軽い――という「評価」や、

こいつは許せない・許せる――という「感情」を、

 

量刑とは切り離すべきなんじゃないかと僕は思うんです。

 

じゃあ、刑罰は、どういう裁量によって決められるのがよいのかといえば、それは、犯罪を犯したその人物を

 「われわれの社会にどういうかたちで置いておくのがよいか」

(どういうかたちでかかわらせておくのがよいか)

あるいは、

「そもそも社会にその人物を置いておくべきか? そうせざるべきか?」

 

そんな基準で判断すればいいように思う。

 

たとえば、死刑。

これは、その人物を「もはやわれわれの社会には存在させておけない」という判断です。

ここでいう社会の中には、刑務所や拘置所も含まれています。

 

終身刑

収容施設の担当官および、家族ら許された面会者とのつながりのみをその人物が関わりを許された「社会」とします。一生涯です。

 

無期懲役・禁固

われわれの社会がもう一度、その人物を受け容れるに足ると判断されるまで、その人物のかかわる社会を収容施設内および、許された面会者のみに限定するかたちです。

 

有期懲役・禁固

われわれの社会が・・・説明しなくていいでしょう。

 

社会奉仕活動命令

その人物を拘束はしないものの、一定期間内における社会とのかかわり方を司法が定めます。

 

どうでしょう。

 

そこで、ちょっと戻りますね。

 

オウムの麻原彰晃もそうですが、罪を犯した人に関しては、たびたびその生い立ちが語られることがあります。

 

可哀そうな生い立ち、そうでもない裕福な過去、いろいろありますが、その人物が大変不幸な生い立ちを背負っているような場合、たとえばそれを間近に見てきている人と赤の他人とでは、その人物が背負うべき罪について、評価がだいぶ違ってきたりもするはずです。

 

大切な子どもを殺された親・・・犯人に下したいのは当然極刑だと思います。

 

でも、犯人自身の親にとってはそうではないかもしれません。「私が代わってやりたい。わが子の命だけは許してあげて」と、願うかもしれない。

 

情状酌量という言葉がありますよね。

 

まさにこの言葉の存在が示すとおり、

罪が重い・軽いの評価や、

許せない・許せる

さらには、

こういう目にあわせてやりたい・このくらいでいい

と、いった応報感情は、その犯罪を見る立場によって変わってくるものです。

 

なので、もちろん完璧もなかなか求められず、しんどいことではあるのだけれど、

社会の「評価」としての「罪」と、

社会の「利益」としての「罰」を

基本的には、地続きなものにしないでおく・・・と、いうのが僕はよいのではないかと思うんです。

 

そうした基準のもとでは、「再犯の可能性が高い」と認められた人物への刑は、より重くなります。

 

性犯罪、児童虐待、薬物や酒の上での暴力といった、本人の性癖に深くかかわっている犯罪については、「わかっちゃいるけどやめられない」の状態であっても、本人には申し訳ないが、刑は重くなるということです。

「わかっちゃいるけどやめられない」だけに、再犯の可能性が高いわけですから。

 

一方、犯罪者に更生をうながすための刑、という考え方については、もちろんそのままでいいと思います。

さきほど挙げた社会奉仕活動命令を日本も刑罰に加えるなど、むしろ充実すべき。

 

そのうえで、差し替えたいのはこの部分。

 

刑の重要な意味のひとつを

「過去に起きてしまったことへの応報」から、

「将来に向けての社会の安全のためのツール」へ変える。

 

どうでしょうか。

 

もちろん、「本人の意図によらず精神に障害を持つ人」への扱いを慎重に詰めなければならない、ということの必要性は、課題として残っています。

 

以上、おそまつ。

 

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