隠れた研究開発都市・和光市
先日、和光市を訪れたにゃ。埼玉県の和光市。
秋の昼下がり、東武東上線和光市駅から徒歩10分くらいのところにある「新倉ふるさと民家園」に、ぶらりと立ち寄ってみたにゃ。
ちなみに、和光市といっても、全国的には知らない人が多いにゃろな。
にゃけど、ある方面ではここはものすごく有名な町にゃ。理研の本部が置かれているんよ。国立研究開発法人・理化学研究所にゃ。
ホンダの最先端研究開発拠点もここに集中してるにゃ。ホンダジェットのエンジンも和光市生まれにゃぞ。つまり、和光市は隠れた研究開発都市にゃ。
人口は毎年着実に増加していて、しかも平均年齢が若く、市財政も潤沢にゃ。
近年は東京都心と結ぶ交通の便も格段によくなったにゃ。不動産投資目線からも、首都圏でもっとも注目を集めている街のひとつといえるよにゃ。
80年代までご子孫が暮らされていたそうにゃ
駅をあとに、静かな住宅地をしばらく歩いていくにゃ。ほどなく、下り坂の途中に古民家が見えてくるにゃ。(下に地図を貼っておいたにゃ)
「旧冨岡家住宅」にゃ。
1988年(昭和63)に、東京外郭環状道路の建設にともなって一旦解体されたんにゃけど、部材はそのまま保存されたにゃ。そんで、2005年から復元工事がスタート。以前あったところからは少し離れたいまの場所に、再び建て直されたものにゃ。
建物は、現在、和光市の所有のもと、きれいに整備された敷地ともども地元市民団体が管理する憩いの施設になってるにゃ。
壁土の色がなんだか優しげだよにゃ。秋の空にとてもよく映えてるにゃ。
この旧冨岡家住宅は、江戸時代中期・17世紀後半頃に建てられたものと見られているにゃ。
そんな、およそ三百数十年にもわたる歴史をもつ家に、聞けば、つい先ごろ1980年代までご子孫が暮らされていたそうにゃ。
ちなみに「同時期の関東の農家としては最大規模」ともいわれるこの家にゃ。その内部に、彼らご子孫ご家族は、壁をこしらえ、廊下をつくり、部屋を増やし、トイレも増設し――と、さまざまなリフォームを敢行、立派に「近代生活」を送られていたそうにゃ。
いまは、綿密な調査を経て、「およそ創建時はこのようだった」と考えられる姿に戻されているそうにゃ。
建物の規模や、おそらくは武家の訪問者を迎えたものであろう玄関~客間のつくり…そんなこんなから、 やや家格の高い農家の自宅だったろうと推測されてるにゃ。
屋根に「くれぐし」がのっかってるにゃ
上の写真、茅葺きの屋根のてっぺんにたくさん草が生えてるにゃろ。なんにゃと思う?
これは「くれぐし」にゃ。屋根を丈夫に保つための工夫にゃ。棟に土を盛って、そこにわざと草花を根付かせるんよ。「芝棟」ともいって、関東~東日本の古い民家でよく見られるやり方にゃ。
いまは写真のとおり草だけにゃけど、時季が来ればここにはアヤメやユリなんかが植えられるんにゃって。屋根の頂上に花壇が載ったような、とても和んだ雰囲気になるそうにゃ。
江戸との結びつきが強かった新倉村
和光市といえば、川越街道の白子宿があった場所としてご存知の方もいるかもにゃ。東京都練馬区との境近くに、わずかにその面影が残ってるにゃ。
この旧冨岡家住宅がある新倉地区は、その白子宿にも近いんにゃけれど、実際のところ新倉と白子宿の間では、人の行き来はさほど活発ではなかったらしいにゃ。
理由は、新倉地区のすぐ北を流れる新河岸川にあるにゃ。舟の行き来がとてもさかんだった川にゃ。
つまり、新倉村(当時)は、江戸と川越を結ぶこの幹線交通路を介して、周囲の村々よりも、むしろ江戸との結びつきがつよい地域だったんにゃて。
新倉村には河岸場=港があって、そこから大根やら麦やら、畑の恵みが新河岸川を下ってどっさり江戸まで運ばれていたそうにゃ。
新倉ふるさと民家園「旧冨岡家住宅」に来てみてにゃ
旧冨岡家住宅が建つ新倉ふるさと民家園では、地域の親子を集めての体験教室とか、1年を通してさまざまなイベントが開かれているにゃ。
ほかにも、「かつてこの家で行われていた年中行事について、いまに伝わっているものはすべて継承していく方針」とのことで、四季折々の神事や仏事なんかが、市民団体の手でこまめに行われているにゃ。心強いよにゃ。
庭も素朴かつ、きれいで和やかにゃ。季節の花があちらこちらで咲いているにゃ。研究開発都市・和光市のオアシスに、今度ぜひ来てみてにゃ。
新倉ふるさと民家園「旧冨岡家住宅」への東武東上線・和光市駅からの経路は、下記の地図のとおりにゃ。
▼和光市古民家愛好会のサイトにゃ
(この訪問記は2018年のもので、2020年7月に文章を手直ししているにゃ)