12~13世紀の頃、インドシナ半島は爛熟していたかもしれない。
たとえば、この頃、ビルマではパガン朝が都を埋めんばかりの造寺造仏を繰り返し、とどまる様子がない。エーヤワディーの滔々とした川面を僧の読経が尽きることなく流れている。
ベトナムではチャンパが盛期を迎えている。交易を基盤とする強靭な国家で、北部ベトナム王朝、西のクメール=アンコール朝を相手取って、激しく進退を繰り返した。
さらに、こうした両国に挟まれながら、インドシナ半島の中心をクメール=アンコール王朝が覆っている。1177年には一度チャンパによって都を攻めおとされたものの、ほどなくこれを回復する。次いで、勢いに乗じて領土を拡大、街道の整備などを順次敢行し、その全盛期に至っている。
こうした三国における繁栄の景色をいまに物語ってくれるのが、
ミャンマーのパガン
ベトナムのミーソン
カンボジアのアンコール
これら巨大な、または広大な遺跡群である。
なお、三国だけではない。同時期には中国大陸が宋代の経済的沸騰につつまれており、日本もまた激動している。日本では、長きにわたった平安期が熟しきるとともに、一方で、農地開拓が荒々しく東国におよんだ結果、武家政権がその誕生をみている。
すなわち、この時期、アジアモンスーンの雲の下にあった各国においては、いずれもが何か共通する気象学的影響を受けていたのにちがいない。
クメール=アンコール朝全盛期の遺物としては、あまりにも有名なアンコール・ワット、アンコール・トムのほか、それらに隣接する比較的大きな3つの遺跡をいまわれわれは気軽に見に行くことができる。
プリア・カン
バンテアイ・クディ
タ・プローム
である。
これらは、12世紀末におけるアンコール朝の最盛期に造営されたもので、規模としては、ほぼ都城といっていい。
仏教僧院を中心としながら、おびただしい数の僧俗・男女がこれらに暮らしていたとみられ、おそらくは合わせて数万の人口があっただろう。なお、のち変遷があって、彼らは奉ずる教えを仏教からヒンドゥー教に変えている。
さて、この3つの「都城」の中で、現在、その景観においてもっとも異彩を放っているのがタ・プロームとなる。
ちなみに、アンコール・ワットやトム含め、周辺の遺跡は、のちのアンコール朝衰退後、どれも長い間深いジャングルの中に眠っていた。
そこで、このタ・プロームに関しては、そうした密林時代のままに多くの部分が据え置かれ、世界の人々に向け公開されている。
その姿は、まさにど迫力といっていい。
巨大なガジュマルの樹が、その大小の根(気根)を垂らしつつ、遺跡にからみつかせ、締め上げ、圧しながら破壊を加えているその様子についていえば、この世の奇観というほか言葉がない。
近代のカンボジアは、ベトナム、ラオスとともにフランスの支配のもとにあった。
宗主国の探検家たちをして、タ・プロームの巨大なガジュマルは、「大蛇が這っている」とこれを見誤らせしめ、彼らの度肝を抜いたとのエピソードが伝わっている。
ただし、見方によっては、タ・プロームの奇観というものは、いわば数寄といえなくもない。
苔むした石柱や石壁、石塔を骨材として、自然物たるガジュマルがそこに不規則かつ有機的な描線を描き重ねることにより、意外に侘び寂びた調和が醸し出されていないわけでもない。
タ・プロームはじめ、アンコール朝の最盛期にあっては、その文化的爛熟が、重厚ながらも繊細さを欠き、華やかながらも創造性においては退屈な造形を生んでいる傾向があるが、タ・プロームはややちがうのである。
ここでは、アンコールの美は、大地と樹の力を借りつつ、その高度なバランスにおいて完成されている。
(上記は初出2009年。情報は当時のものにゃ! トラキチ旅のエッセイは、過去に別の個人サイトで別名で公開していたコンテンツにゃ)
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