クメール=アンコール王朝の最盛期は、ジャヤヴァルマン7世王の時代にもたらされている。
王は、源頼朝と概ね似た頃、この東南アジアの大国の支配者の地位にあった。
頼朝が鎌倉のまちを要塞としてこしらえたように、ジャヤヴァルマン7世もまた、王都アンコール・トムをそのようなかたちに再建している。
鎌倉は、四方を山と海とに守られた城塞都市であった。
アンコール・トムもまた、環濠と高い壁に囲まれた堅固な城であり、どちらもその中心に置かれたのは人の住む宮殿ではなかった。
座を占めたのは、国を鎮めるためのやんごとない宗教施設であり、
鎌倉の場合は、鶴岡八幡宮。
アンコール・トムにあっては、バイヨン寺院。
幕府政庁や王宮は、その脇につつましく寄り添うといった具合である。
頼朝は、平家を相手に、いわば父親の弔い合戦を挑んで、これに勝った孝行息子だが、ジャヤヴァルマン7世もやはり孝にいそしむ人だった。
この人は、隣国チャンパとのいくさに敗れた故国を回復させることによって、王権を握ったが、その後ほどなく、父親の霊をなぐさめるための菩提寺として、大僧院「プリア・カン」を整備している。
プリア・カンは、僧院としてそこそこの規模のものではない。
アンコール・トムの北門ほど近いところにたたずむこの施設は、仏僧のほか、住人合わせて万を超える人数が暮らしたとされる、まさに堂々たる「都城」であった。
市民(?)の中には、踊り子も大勢いたらしい。一説には千を数えたという。
僧院の内外にうら若き舞姫たちが闊歩――では、僧らにとっては修行のさまたげになって仕方がなかった可能性があるが、そんなことは、おそらく王の知ったことではなかった。
すなわち、僧の読経もわが父のため、踊りもわが父のためである。
妖艶なかがり火の中、父の冥福を祈るための乙女たちの舞を王は勅命により、毎夜奉納させたのにちがいない。
ちなみに、大変な孝行息子をもった当該父親については、ダラニンドラヴァルマン2世――という名が伝わっている。王族のひとりであったらしい。
息子ジャヤヴァルマン7世からさかのぼって3代前のクメール王であったこととなっているが、どうも嘘である気配がなくもない。
おそらくは、孝行息子が孝行のあまり、あとから王位までをも「親孝行」してしまったのではなかろうか。
ちなみに、舞姫たちは、生身(しょうじん)の者ばかりではなかった。
その艶めいた姿は、巨大僧院を構成する無数の石材にも刻まれている。
プリア・カンを訪れれば、いまも彼女たちに会うことができる。
(上記は初出2009年。情報は当時のものにゃ! トラキチ旅のエッセイは、過去に別の個人サイトで別名で公開していたコンテンツにゃ)
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