私は由佳。
26歳の会社員です。
去年のことです。
ある男の人を好きになりました。
職場の先輩です。弘也さんといいます。
4つ年上の人です。
その弘也さんには、長年付き合っていた彼女がいました。
私はそのことを弘也さんと付き合い始めてから知りました。
相手はやはり同じ職場の人でした。
那美さんといいます。
弘也さんと同い年の人でした。
つまり、私はこの人から弘也さんを奪ったことになるわけです。
弘也さんは那美さんときちんと別れないまま、私との交際をスタートさせていました。
やがて、それを知った那美さんからは、私にしつこく電話がかかってくるようになりました。
「弘也さんと別れて」
「彼を返して」って。
私は断り続けました。
会社の帰り道、待ち伏せされたこともありました。
でも、私は彼女を相手にはしませんでした。
弘也さんは、仕事もデキる素敵な人でした。
絶対に譲るつもりなんかありませんでした。
そして、そのあと少し経った、去年の夏のことです。
2泊3日の職場旅行がありました。
行き先は海辺の町でした。
1泊目の夜、夕飯が終わったあと、私は那美さんに呼び出されました。
「一緒に来て」といわれ、連れて行かれた場所は、海のそばでした。
波打ち際に近い岩場でした。
日も沈み、空はそろそろ暗くなってきていました。
那美さんは、波が砕ける岩の先の方まで歩き、振り返って私に言いました。
「お願いだから彼と別れて」
「別れてくれないなら、ここから海に飛び込む」
呆れました。
彼女は私を脅そうというのです。
そこで、私は引導を渡すつもりで、彼女に、持参してきたあるものを見せました。
それは指輪でした。
弘也さんから先日もらったばかりの結婚指輪でした。
私は驚く那美さんの目の前で、それを左手の薬指にはめてみせました。
「もういい加減にしてください。死にたいなら勝手に死んでください。私の幸せの邪魔をしないでください!」
私はそう言って、砕ける波の音が響く中、彼女を一人残して旅館へと帰りました。
その夜のことです。
ちょっとした騒ぎになりました。
外が真っ暗になり、夜の9時を過ぎても、10時を過ぎても、
那美さんが旅館に戻らないのです。
(まさか・・・)
私はさすがに焦りました。
(海に飛び込むって言ってたけど、まさか、あの人本気で・・・!)
すると・・・
いよいよ「捜索願いを出そうか」と、なった時でした。
とぼとぼと、那美さんが帰ってきたのです。
「おいおい、どこに行ってたんだ」
上司にそう訊かれても、那美さんはじっと無言でした。
きっと、胸に深いショックを抱えながら、あちらこちらを歩き回っていたのでしょう。
そんな事情は、誰にもわかりません。
私しか知りません。
ともあれ、そのときは、誰もがほっと胸をなでおろしました。
翌朝です。
雲ひとつない青空のもと、私たちはみんなで浜辺に繰り出しました。
那美さんの姿はありません。
きっと旅館に引き籠っているんだな、と、私は思っていました。
ちょっとかわいそうかな、と、少し胸が痛みました。
けれども、その方が、実は私にとっては好都合でした。
お昼になり、バーベキューパーティーが始まりました。
そこで、私と弘也さんは、職場のみんなに婚約を報告しました。
私たちはみんなの拍手に囲まれました。
とても幸せでした。
でも、これが最後でした。
私と弘也さんが過ごした幸せなひととき、これが永遠の最後でした。
突然のことでした。
「沖でボートがひっくり返ってるぞ!」
誰かが声を上げました。
私は咄嗟に振り向きました。
少し沖合で、ゴムボートが裏返しになっています。
弘也さんです。
弘也さんと、もうひとりの男性の同僚が乗ったゴムボートです。
弘也さんは?
見ると、海に投げ出されていました。
同僚の男性の方は、ゴムボートに掴まっています。
笑っているようです。
二人で何かふざけていて、うっかり転覆させてしまったのでしょうか。
ゴムボートはまたすぐに元通りにひっくり返されました。
でも、
「おや・・・」
おかしいのです。
弘也さんの様子です。
バタバタと暴れています。
ボートは目の前に浮かんでいるのに、弘也さんはたどり着けずにいるようなのです。
波のほとんど無い、穏やかな海面です。
弘也さんは泳ぎは達者です。
それなのに、必死でもがいています。
しかも、それだけではありません。
弘也さんの体は、なぜかゴムボートからぐんぐんと引き離されていくのです。
それに気づいた同僚が、ボートを必死で押しながら、バタ足で弘也さんへ近づこうとするのが見えます。
それでも、どうしても追いつけないのです。
弘也さんは、どんどん沖の方へ、何かに引きずられるかのように、ボートから離れていくのです。
私は叫びました。
「弘也さん!」
「誰か助けて!」
浜辺は大騒ぎになりました。
次々と、浮き輪を持って、男性たちが海に飛び込んでいきます。
弘也さんの声です。かすかに聞こえてきます。
「助けて!」
「足が!」
それから数十秒も経たない、ほんの短い間のことでした。
弘也さんの体は、あっけなく海中に消えてしまいました。
変わり果てた彼の遺体が近くの岩場で発見されたのは、その日の夕方、日が沈みかけてからのことでした。
そこではさらに恐ろしいことが起きていました。
身の毛もよだつような出来事でした。
打ち上げられた遺体は、1体ではなく、2体でした。
弘也さんだけではないのです。
彼の下半身、腰から下にしっかりと両手を絡みつかせながらしがみついている、もうひとつの遺体がそこにはあったのです。
不気味に青白く染まったその遺体は、女性のものでした。
那美さんです。
朝から姿を消していた那美さんが、どういうわけか、死体となって弘也さんの体に絡みついているのです。
女性社員が二人、その場で失神したくらいの恐ろしい情景でした。
ですが、とても不思議なことがひとつだけありました。
那美さんの表情です。
遺体となった那美さんの顔は、なぜかとても幸せそうでした。
彼女は、にっこりと、天国にでもいるかのように、満足げに微笑んでいるのでした。
数日して、亡くなった二人の奇妙な検死結果が報告されました。
弘也さんの死亡推定時刻、それはたしかに間違いなく、あのバーベキューパーティーが終わったあとの午後でした。
ところが、那美さんの方は違うのです。
遅くとも、その前の日の晩に、彼女は亡くなっているはずだというのです。
その時刻は・・・
なんということでしょう。
私が波の打ち寄せる岩場で彼女に指輪を見せた、まさに、あの直後なのでした。
------------------------------------------------
この夏の怪談シリーズは、トラキチが ’90年代に、オーディオドラマ用に頼まれて書いたものにゃ。もともとはセリフと「ト書き」で構成された脚本にゃ。紙の原稿がひょっこり出てきたので、短編小説風に直して、ここに載せることにしたにゃ。スマートフォンがまだ存在しない時代が背景になってるにゃ。
------------------------------------------------