クメール帝国の都城、アンコール・トム。その中心、バイヨン寺院。
低い石の塔が、かさなるように立ち並ぶ。回廊がめぐり、彫刻が壁を埋め尽くす。複雑なその姿は、全体をもって山を表しているとされる。
不思議な遺跡である。塔それぞれに「顔」がある。
微笑をたたえた顔が173。48の塔に彫り込まれている。
この顔が、古来論争を呼んでいる。「誰の顔なのか――?」
明らかにする文献が無いのだ。
加えて、これらの顔自体にも、これが何者なのかを決定づける証拠が無い。
そのため、さまざまな説が出た。
まず、ブラフマー神。ヒンドゥー教の神様だ。仏教では「梵天」。
この神は四つの顔を持つので、塔の四面に顔が彫られているバイヨンの塔のかたちと共通性が深い。
次いで、シバ神。
こちらもヒンドゥー教の神だ。バイヨンの「顔」を見ると、どれも額にひし形の浮き彫りがある。「シバ神のもつ『第三の目』を表すものだ」と、論じられた。
さらには「観音菩薩」。
バイヨンを建立した王、ジャヤヴァルマン7世(1181年より在位)は、大乗仏教を信じた。加えて、バイヨンには「顔」以外にも、観音菩薩ではと推測される他の浮き彫りも存在する。
であれば、冠を頭に載せ、慈悲の微笑みを浮かべるバイヨンの「顔」は、やはり観音菩薩にちがいない――。
これが最有力の説となり、いまも多くの解説が「バイヨン寺院のあの顔は観音菩薩」と、人々に紹介している。
ほかには、「いや、あれは菩薩や神などではない。ジャヤヴァルマン7世王ご自身だ」と、いう人もいる。
が、いずれも決定的証拠を欠いていて、バイヨンに参拝したはいいが、どうこのお顔を拝めばいいのか。靴の外側から足の裏を掻く思いとは、まさにこのことだ。
そこに、最近、新たな見解が浮かび上がった。
切り口は情報工学となる。
東京大学大学院情報学環・池内克史教授らのプロジェクトが、赤外線レーザーを使った綿密な測定データをもとに、バイヨンの塔、彫刻、すべてを三次元デジタル画像に再現したのである。
それを分析した結果、面白いことが判明した。
バイヨンの顔=尊顔は、どれも似てはいるが、はっきりと3つのパターンに特徴が別けられるというのである。
そこで、これをもとに日本国政府アンコール遺跡救済チーム団長、中川武教授(早稲田大学)曰く、
「実は、以前から尊顔は3種類に別けられると見られていた。それが明確になってきた。尊顔以外の彫刻との照合・検証の結果、男神(デーヴァ)に当たるもの、女神(デヴァター)に当たるもの、そして鬼神(阿修羅)と、やはりここには3種類の顔が彫られているようです」
となれば、「すべて同じモチーフ」が前提だった過去の諸説は根底から覆ってしまう。
なおかつ、これらは残念ながら、日本人には馴染み深い観音様でもないということに?
とはいえ、疑問も湧き上がる。
別々のモチーフによる造像だとするにしては、バイヨンの「顔」は、まぎらわしいほどにどれもよく似過ぎてはいまいか。
もはや辛抱たまらず、
「一体あんたは誰だ!」
そう尋ねてみても、今日もバイヨンの御尊顔は熱帯の森の風の中、ただ静かに微笑むだけである。
(参考文献:GRAPHIC SCIENCE MAGAZINE Newton 2007.6)
(上記は初出2009年。情報は当時のものにゃ! トラキチ旅のエッセイは、過去に別の個人サイトで別名で公開していたコンテンツにゃ)
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