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それは万博から始まった? 私見・大阪空間色彩論 <トラキチ旅のエッセイ>第6話

 

大阪は色彩豊かである。キタもミナミも変わらない。

 

狭い街路にさまざまな色彩が幕の内弁当のように押し込まれ、密度感にあふれる景色をつくり出している。

 

色は派手な原色が愛される。赤、青、黄色――。

 

あからさまな原色をまとった看板やディスプレイが、子どものおもちゃ箱をひっくり返したような雑然さで街をいろどっている。

 

ところで、いつから大阪はこのように派手に色付いた街になったのか。

 

たとえば、江戸期の錦絵を確かめてみる。が、そこには特に派手な街の印象はない。

 

むしろ、いまに残る船場の「適塾」のたたずまいから想像されるような、水垢に寂びたモノトーンの…そう、東アジアの水郷都市といった印象こそが、おそらく近世の大阪の代表的な景色というものだろう。

 

時間を進める。近代の写真を並べてみる。明治から戦前までの大阪を眺めてみる。

 

もちろん、それらの写真に残念ながら「色」はついていない。モノクロである。

 

しかし、やはりそこには、たとえば東京や名古屋と比べての際立った違いは感じられないといえるだろう。

 

つまりは、大阪だけ派手――という突出が、どうやらこの時期にはまだ起きていないのだ。

 

そんな大阪が、なぜかそののちいきなり派手な色彩と突飛な造形にあふれる遊園地のような街になる。

 

その理由として、ひとつ提示したい。「万博」である。

 

大阪(大阪府吹田市)で1970年に開催された万国博覧会は、総入場者数が6400万人を超えるという、空前のイベントだった。

 

万博を見たいあまり、家出をした子どもが何人も出た。

 

断言したい。おそらくは、この「大阪万博」こそ、東大寺落慶法要なども大きく凌駕して、過去の日本の歴史上、最大の催しであったにちがいない。

 

そして、この大阪万博こそ、実は色と形の大洪水だった。

 

すなわち、大阪の現在を象徴する「色彩と造形」の大博覧会だったのである。

 

しかも、大阪万博の開催された70年前後といえば、奇しくもカラーテレビの国内普及率がうなぎのぼりの真っ只中である。

 

つまりは、そんな「色彩の時代」に全国の主役となった大阪の街が、いまもかつてを忘れられず、派手な色の街であることをやめられないことには、思えば何の不思議もない。

 

(上記は初出2009年。トラキチ旅のエッセイは、過去に別の個人サイトで別名で公開していたコンテンツにゃ)

 

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